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松竹座七月大歌舞伎 昼の部 [2003年 歌舞伎]

2003年7月22日配信

皆様、こんにちは。まるまる1ヶ月ぶりのカンゲキ通信です。

さて、本日は待ちに待った松竹座恒例の夏芝居!!今日は昼の部をレポしますね~。ちなみに同行者は母上様です。

今回は大阪府文化振興財団主催による「半額鑑賞会」のおかげで、大きな芝居小屋で初めて、1等席で見物することができました。

「半額鑑賞会」というのは、大阪・京都の劇場での公演を1等席半額で観賞できるというお得な企画。ハガキでの抽選になるため、席は指定できませんが、それでも歌舞伎興行の1等席なんかは手が出せないくらいの値段ですので、嬉しい企画です♪

昼の部は、以下の4演目。順番にご報告します。


■ 高時 ■

9代目市川団十郎が提案した、歴史劇「活歴」の1つです。歌舞伎に不可欠な、舞台上での美しさ、ダイナミックさよりもどちらかというと物語や歴史の写実性に重点を置いた、時代劇の先駆けのようなものでしょうか。

自分の思うことはすべて望み通りになる鎌倉幕府の執権、北条高時(中村橋之助)が、異形の者(実は天狗)に散々たぶらかされる、というお話。

正直言って、どうということもないお芝居ではありましたが(暴言)、天狗たちのパフォーマンスは怪しい雰囲気ながらも心躍るリズムで観客の心を乗せる序幕としては適当な作品。橋之助演じる高時が、天狗にたぶらかされているとも知らずノリノリで踊っていたのが印象的でした(笑)。


■ 手習子 / 女伊達 ■

次は女方による舞踊2題。

●まず「手習子」は、題名通り、まだ手習いに通っている位の少女(中村扇雀)が、あどけないながらも恋に憧れる様子を舞踊で表現するもの。

恋の切なさ、ときめきに憧れる少女が、踊りの稽古で習い始めたばかりの『道成寺』「毬歌」の場面のおさらいを始めるのですが、桜の花びらを手で集める振りなど、いかにもまだまだ習い始めたらしい大雑把な手の動かし方で、それだけで少女らしさが伝わってきて、ほのぼの~。

扇雀の「手習子」は、少女のおませぶりはよく出てましたが、少女らしいあどけなさ、愛らしさは、やはり父である鴈治郎には叶わなかったような気がします。人間国宝と比べてもいけないとは思いますが。(鴈治郎の「藤娘」、ホントにスゴイですよ!少女にしか見えない!)

●続く「女伊達」は本興行の立女形、中村時蔵の一人舞台。江戸の女侠客、お時(時蔵)が、侠客(愛之助、進之介)と共に江戸女の粋の神髄を舞踊で表現します。

絡んでくる男侠客を難なくやり込めたり、「よろずや」(時蔵の屋号)と書かれた傘との立ち回りなど、女伊達の気っ風の良さや気の強さ、ほのかに垣間見せる色っぽさなど、時蔵、まさにハンサムな女。母が「カッコ良い女の人やねぇ~~」と、思わずため息をついた程。(もしや母、ホントに「女の人」と思ってはいないだろーか…?笑)


■ 義経千本桜 木の実/小金吾討死/すし屋 ■

さて、七月松竹座一番の大舞台と言われる「木の実」~「すし屋」。

『義経千本桜』は、歌舞伎の三大通し狂言の1つです。(あとの2つは『菅原伝授手習鑑』と『仮名手本忠臣蔵』)

通し狂言は、全部を上演しようとすると、昼夜かかってしまうので、たいていの興行ではその中の1つのエピソードを取り上げて上演することが多いです。

今回は、権太(ごんた)と言う一人の男と、彼をめぐる族の物語が中心。

***

時は源平合戦も終り、鎌倉方が平家の落人狩りにやっきになっている鎌倉時代前半。

鎌倉方は、吉野下市村の弥左衛門(坂東弥十郎)が平惟盛を匿っているという情報を得て彼を呼び出し、その首を差し出すように迫ります。

さて、同じく吉野下市村で茶屋を営む小せん(片岡秀太郎)の夫、権太(片岡仁左衛門)は、この辺りでは「いがみの権太」と呼ばれるならず者。今日も小せんが旅人に頼まれてお遣いに行った間に、その旅人から20両を騙し取る始末。

弥左衛門は、権太の父親で、下市村で鮨屋を営んでおり、この春から弥助(時蔵)と言う下男を雇っています。弥左衛門の娘、お里(孝太郎)は、この弥助にゾッコン。いそいそと、非力で頼りない弥助の世話を何かと焼きます。

実はこの弥助こそ惟盛で、弥左衛門は昔、彼の父親重盛に助けられた恩から、惟盛を匿っています。惟盛の妻子が都から追いかけてきたことを知ったお里は、恋しい人が身分の違う貴人だと悟りショックを受けますが、追っ手が近いと知って、気丈にも惟盛一家を別の場所へ逃します。

ところがそれをすべて聞いていたのが、家を勘当されたにも関わらず、偶々母親に金の無心をしに来ていた権太。惟盛を想うお里の必死の懇願も虚しく、鎌倉方の詮議役、梶原景時(片岡我當)に惟盛の首と妻子を生け捕って差し出し、褒美の賞金をせびる始末。

鎌倉方が去った後、親を裏切った報いと、弥左衛門は権太を刺します。息も絶え絶えの権太の口から開かされた真実。

鎌倉方に差し出した首は惟盛とは別人、そして連行されていった妻子は、身代りを引き受けた権太の妻、小せんと倅だったのです。そして…運命のからくりは、2度と元には戻せませんでした。

***

いつも思うのですが…「すし屋」は、あらすじをまとめるのに本当に苦労します…(汗)。

様々な人の因果や血縁、思いが、物語の展開と複雑に重なり合い、絡み合っているので、それだけに説明も難しいですね。

仁左衛門の権太は、「すし屋」中盤まではホントに泥臭い小悪党、という空気が全面に押し出されていました。悪役としてのカッコ良さよりも、憎らしさ、ふてぶてしさを重視。それだけに「木の実」で見せる子煩悩ぶりに人間らしさを感じさせます。

すし屋後半の首実検で見せる息と間の詰め方もさすが。そして、父親に刺されて本心をようやく語る、悲痛な声と表情。迫力があり、それだけに哀れさも増して、胸を打たれます。

(一見悪役に見える人が改心することを、歌舞伎では「もどり」と言います。逆に、良い人っぽく見えた人が実は悪人に変身しちゃった場合、「ぶっかえり」と言います)

泣けたのは、権太が鎌倉へ身代りとして連行される妻子を見送るところ。連行されながらも、ふと権太を振り返り、今生の別れを込めてじっと夫を見つめる妻と子供。ただただ頭を下げるしかない父親。

「おう!賞金忘れんなや!…頼んまっせ!…頼んまっせ…」

梶原にかけていると見せかけて、実は別れの言葉さえ交わせずに連れて行かれる妻子の後姿に向かって、吐く言葉の切なさ。芝居の前半で家族の仲睦まじさを観ている観客にとっても耐えられない場面です。誰が泣かずにおらりょうか―――っ!!!(突如私情が爆発)

小せんを演じた秀太郎は、さすがの巧さ。特に上記の場面での、哀れで儚げな風情には胸が詰まりました。ふと振り返って権太を見やり、眼差しだけで伝える夫への思慕。ただ見つめているだけなのに、小せんの嗚咽が聞こえてくるような感じさえしました。そして、思わず父に駆け寄ろうとする倅を止め、前へうながす時の母としての毅然とした、でも優しい仕草。

妻として、母として、権力の波に飲み込まれた1人の女性としての情が溢れていて、本当に素晴らしかったです。

***

いやー、それにしても、毎回3階席から見下ろしていた定式幕を、下から見上げている時の感動と言ったら、ちょっとなかったです(笑)。

舞台が近いから、芝居の世界にすごく入っていきやすかったですね。3階からだと、その物語の「世界」とうか、「構図」がはっきりととらえる事ができますが、1階席は物語の世界の「息遣い」がダイレクトに伝わってきます。どちらにも、それぞれポイントがあるんですね。

次回は「七月大歌舞伎 夜の部」でお会いしましょう。…実はこれも、友人が当選した「半額鑑賞会」の分です(笑)。

それでは。


* * * * *


「半額鑑賞会」は、現在は社団法人日本演劇興行協会 半額鑑賞会事務局に
窓口が代わっているようです。
http://www.pref.osaka.jp/bunka/news/hangakukansyo.html (大阪府からのお知らせ)

最近、ニザ様の舞台をとくと拝見していないなぁ・・・。というか、歌舞伎を観る機会自体が減っていますしね・・・。でもニザ様の権太は、絶品です!孝太郎さんのおきゃんで可愛らしい娘方も、本当に惚れ惚れしますよね。

 


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